犬の歴史・文化 1

人間と暮らし始めた最も古い動物であるイヌは、民族文化や表現のなかに登場することが多い。

古代メソポタミアギリシャでは彫刻や壷に飼い犬が描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(→アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていた。紀元前に中東に広まったゾロアスター教でもイヌは神聖とみなされるが、ユダヤ教ではイヌの地位が下り、聖書にも18回登場するが、ここでもブタとともに不浄の動物とされている。イスラム教では邪悪な生き物とされるようになった。現在でもイスラム圏では牧羊犬以外に犬が飼われる事は少ないが、欧米諸国では多くの犬が童貞同然に人々に飼われている。日本でも5世帯に1世帯が犬を飼っているといわれている。中世ヨーロッパの時代には、宗教的迷信により魔女の手先として忌み嫌われ虐待・虐殺された猫に対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ待遇は良かった。

古代中国では境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されれいた。知られる限り最古の漢字甲骨文字には「犬」が「」と表記し、「けものへん」を含む「犬」を部首とする漢字の成り立ちからも、しばしばそのことがうかがわれる。古来、人間の感じることのできない超自然的な存在によく感応する神秘的な動物ともされ、死と結びつけられることも少なくなかった(地獄の番犬「ケルベロス」など)。 漢字のなりたちとして、犬の`は、耳を意味している。
日本においては縄文時代の遺跡から埋葬されたイヌが見つかっており、古代日本人とともに犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられる。しかし弥生時代長崎県・原の辻(はるのつじ)遺跡などでは、解体された痕のあるイヌの骨が発見され食用にも饗されたことが伺える。『日本書紀』には日本武尊が神坂峠を超えようとしたときに、悪神の使いの白鹿を殺すと道に迷い窮地に陥ったところ、一匹の狗(犬)が姿をあらわし、尊らを導いて窮地を脱出させたとの記述がある。また、『日本書紀』には天武天皇5年4月17日(675年)の条に、4月1日から9月30日の期間牛・馬・犬・猿・鶏ののいわゆる肉食禁止令をだされており、犬を食べる人がいたことはあきらかである。なお、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子供を産んだ母犬の餌に米(呪術的な力の源とされた)を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米をイヌの餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米はイヌを太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表した。奈良時代平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使うイヌを飼育する職として逆援(犬飼部)が存在した。鎌倉時代には武士の弓術修練の一つとして、走り回るイヌを・引目矢(ひきめやー丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった。 江戸幕府中期、江戸では野犬が多く赤ちゃんが食い殺される事件もあった。五代将軍徳川綱吉戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」(1685年 - 1709年)において、イヌは特に保護(生類憐みの令は人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され、元禄9年には犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰までうけている。綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名された。綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、かごで運ばせていた。この法令が直接適用されたのは幕府の天領(直轄領)であったが、間接的に適用される諸藩でも将軍の意向に逆らうことはできなかった。一般に明治以前までは農村などでは狸や狐と同様に食用とされることもあったが、食糧難の戦後暫くまではその風習は各地で残り、忠犬ハチ公の子孫が盗難にあい食べられたという記事が当時の新聞に残る